森達也氏,死刑を語る

こんなイベントがあるそうです.
http://www.labornetjp.org/labornet/EventItem/1224074825982staff01

2008/10/21 JCJミニシンポ《もっと知りたい・そこが知りたい》第10回
JCJミニシンポ《もっと知りたい・そこが知りたい》第10回

どうして人を殺しちゃいけないの?
どうして人は殺されなくちゃいけないの?

もし被害者があなたの子供だったら?
もし加害者があなたの兄弟だったら?
あんな悪いヤツは死刑にすべき?
        ◆◆◆
著書『死刑』で2008年のJCJ賞を受賞した森達也さんの話を聞きながら「死刑」そして「死」をどう考えればいいのかを探りましょう。是非、JCJ賞受賞作品『死刑』を読んでご参加ください。もちろん、読めなかった!人も歓迎。

私が森達也さんの名前を知ったのは,言葉狩りについて調べている時に,この著書を買った時からでした.
http://www.amazon.co.jp/%E6%94%BE%E9%80%81%E7%A6%81%E6%AD%A2%E6%AD%8C-%E7%9F%A5%E6%81%B5%E3%81%AE%E6%A3%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A3%AE-%E9%81%94%E4%B9%9F/dp/4334782256
Amazonのレビューにも書かれているので,多少の内容を紹介してもネタバレにはならないでしょう.

文庫版では,全4章のうちの1章を「部落差別と放送禁止歌」ということで,関西では色々と問題になっている部落問題について裂かれていて,きっちりと部落解放・人権研究所にも取材に行っています.
index|一般社団法人部落解放・人権研究所

また,章は違いますが,部落解放同盟にも取材に行っています.
この件は面白いです.

東京・六本木にある解放同盟の役員室で,僕は西島藤彦と対面した.手渡された彼の名刺には,「京都府連合会書記長・中央本部教宣部長」と肩書きが記されていた.

この後,森達也氏が「踏み込みすぎた.そう直感した僕は口を閉ざした.」と語る発言があります.

「ならば僕は今回の作品で,『穢多非人』という言葉を使います.これも了解してもらえますね」

(念のためですが,これは森達也氏が単に挑発や問題提起のために発した言葉ではなく,森氏の「メディアが自分の言葉で考えて,そのうでで必要と判断した表現に対しては,解同は理解を示してくれますか」という質問に対し,西嶋氏が「もちろんです」と答えたことに対してのものです)

私は解放同盟や解放人権研究所の言う糾弾権については,ほとんど賛成できません.マスコミが弱腰で,頭を使わずに言葉狩りに走っているのは彼らの言う通りですが,それを作り上げた責任の一端は,彼らの言う糾弾権にあると思っています.
http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%B5%EA%C3%C6%B8%A2

〈糾弾権の是非〉
 これに対して,1986年(昭和61)の*地域改善対策協議会の<意見具申>,確認・糾弾【かくにんきゅうだん】についての法務省の<見解>は,糾弾闘争否認の考え方に立って,確認・糾弾会が行き過ぎて一方的・主観的・恣意的となる場面のあること,被糾弾者の人権に及ぼす影響など,糾弾が新たな差別意識を生み出す要因となって差別解消の目的を達成するうえで障害になっているなどと断じている。差別的言動に対する糾弾行為(糾弾権)について最初の法的判断を示したのが*小松島差別事件での徳島簡易裁判所判決(1972.10.11)である。それ以来、判例は,差別が現存し,かつ差別行為に対する法的規制と救済手段を欠いている現状のもとで,差別糾弾は手段,方法が相当な程度を超えない限り,社会的に承認されて然るべき行動であり(*矢田教育差別事件・大阪地裁判決1975.6.3),また法秩序に照らし,相当と認められ,程度を超えない手段,方法による限り,かなりの厳しさを有することも是認される(同事件・大阪高裁判決1981.3.10)とも判示している。いずれも,一定の限定を付けつつも,判例上,糾弾権を肯定したものと解してよいだろう。その限りにおいて,糾弾権に対応して,差別者の側が糾弾に応ずべき義務を社会的に負担すべきことが是認されよう。また、*八鹿高校差別教育事件における大阪高裁判決(1988.3.29)は憲法14条の平等の原理を実質的に実効あらしめる一種の自救行為【じきゅうこうい】として,糾弾権について是認できる余地があるとしている。

しかし時代も変わり,森氏に対する西島氏の返答がさすがです.
もっとも,最初は森氏も怖かったらしく,こう記しています.

西島は沈黙し続けている.ここまでの僕の挑発や誘導尋問には,動じることなく淡々と対応してきた西島だったが,僕がこの言葉を口にした瞬間に,修羅場をさんざんにくぐってきた男の凄みが,その全身から揮発して周囲に漂った.わかりやすく喩えれば仁侠映画高倉健だ.調子に乗った小悪党は,次の瞬間にはドスで深く貫かれているはずだ.

そして西島氏の返答は,次のようだったそうです.

「……もちろん,言葉だけで,判断する気はありません」
(中略)
「使い方には,留意して下さい」

「言葉だけで,判断する気はありません」...もっともだと思います.文脈,作品全体の趣旨,文章が書かれた(もしくは舞台とする)時代等を考慮して,単語のみを狩ることが言葉狩りです.
その意味で,この書に書かれている解放同盟幹部の対応は,正しい.


...そしてこの本の結論は,Amazonの一般人の書評にもあった通り,「『放送禁止歌』は無かった」です.
全てはマスコミが,勝手に「自主規制」していた,いや,今でもしているそうです.だからマスゴミだなんて言われるんですよ.

情け無い.